いつかどこかの世界
 『ワカヤマール物語』
   〜1ページの重さ〜


いつかどこかの世界に、ワカヤマ−ルという国がありました。
ワカヤマ−ルは大国オオサカリアの隣にあり、これといった特徴のない国です。
けれど人の心はとてもおだやかで、
どこにもまけないことが一つだけあります。
それは国境地帯にほど近いロ−サイ山のふもとに
一人の魔女が住んでいることです。
「北の魔女アイコ−ディア」
人々は敬愛と親しみを込め、彼女のことをそう呼んでいます。


桜の花が咲きました。
桜の花が散りました。
子供の頃はただそれだけなのに、大人になると何故かちょっぴり違うようです。
枯れ葉が散ることのもの悲しさよりも、揚々とした草木の息吹に胸が熱くなるのは、きっと
限りある命がそれほどまでに健気で愛おしい存在だからかもしれません。
さて、そんな季節の物語は、この魔女の家に訪れた、とても不思議なお客様のお話です。

『トントン・・・トントン・・・』
「おや?」
ミ−ヤ・チャンは誰かがドアをノックしている音を聞きました。
急いで廊下に出てみますと、どうやら他の見習い魔女達は誰もその音に気づいていないようで、
ひっそりと寝静まっていました。
ミ−ヤはランプに明かりを灯すと、転ばないように玄関へ急ぎます。
窓からはほんのり月明かりがさし、満開の桜が見事に浮かび上がっていました。
「はい、お待たせいたしました。 今あけます」
ミ−ヤはテ−ブルにランプを置くと、ゆっくりとドアを開けます。
するとそこには一人のおばあさんが立っているではありませんか。
こんな夜更けに不思議なことです。
「すみません、どうしてもアイコ−ディア様にお話が・・・」
「どうぞ、お入り下さい」
ミ−ヤは申し訳なさそうに話すおばあさんに、居間で一番座り心地の良いソファ−をすすめました。
「お師匠様を呼んできます」
ミ−ヤがお辞儀をして振り返ると、そこにはもうすっかりまじょふくに着替えをすませた
アイコ−ディアが立っていました。
「ご苦労様」
ミ−ヤに向かいいつものように微笑んだアイコ−ディアは、おばあさんの前の椅に
ふんわりと腰を下ろしました。
「わたし、お茶を入れてきます」
ミ−ヤが言うと、おばあさんはとても困って様子で言いました。
「すみません。 あの、私いただけないと思います・・・」
それを聞いたミ−ヤは、これまた困った顔をしましたが、ふと何か決めごとをしたような表情で、失礼が
ないようにもう一度お客様にお茶を勧めました。
「あっ、でも良い香りがしますし、気分が落ち着きますから」
「そうですわ、私達も一緒にいただきます」
アイコ−ディアもふむふむと頷きます。
おばあさんはその言葉を聞き、微かに微笑んだようでした。
言葉通り、ミ−ヤの煎れたアップル・ティ−の香りは、居間の中に優しい時間を呼び込んだようです。
そのおかげでしょうか、おばあさんは肩から力を抜き、ゆっくりと話を始めます。
「お預けしていたものを持っていきたくて、こうして迷惑を顧みずやっまいりました」
「まぁ、それはそれは・・・」
アイコ−ディアはそんな短い言葉しか口にしませんでしたが、嬉しそうな、そして
どこか安心したような響きがこもっていました。
おばあさんの言葉を何度もかみしめるように頷き、アイコ−ディアは、
「ミ−ヤ、西図書室507番の622列目の8段目の右から31冊目を持ってきてちょうだい」と
言いました。
「は、はい!」
魔女の家には不思議なことが沢山あるのです。
たとえばアイコ−ディアのこの記憶力・・・・。
しかし、今は不思議がっているわけにはいきません。
ミ−ヤ・チャンは口の中で何度も言われたことをモゴモゴ繰り返し、図書室まで歩いてゆきました。
ミ−ヤがさった後、おばあさんはポツリと言いました。
「今日・・・、あの人が私の手を握って泣きました。 幼い息子が死んだときも、
娘が嫁に行ったときも、涙1つ流さなかった人が、初めて泣いたのです。
もういい・・・って思いました。
あの瞬間、私の中にあった石のようなわだかまりが一気に溶けたようでした。
こんな事ならもっと早く、気づけば良かったのに・・・・・」
おばあさんは声を詰まらせ、肩を震わせました。
「ずっと、そんな風に思っていらっしゃったのね。 それはさぞかしお辛かったでしょう。
でも、今あなたの中にある、その暖かい思いを大事にしましょう」
アイコ−ディアの微笑みが、おばあさんの心に寄り添うように揺らめきました。

ドアが開き、ミ−ヤ・チャンが戻ってきたようです。
「お、お待たせいたしました」
そう言ったミ−ヤの息がずいぶんと辛そうです。
手にしているのは、どこに出もありそうな本だというのに、それをまるで岩でも持ち上げているような顔で
運んでくるのですからチョット不思議です。
ところが・・・。
「あらあら、ご苦労様」と言うと、
アイコ−ディアはその本を片手でヒョイと持ち上げてしまいました。
そしてその本をおばあさんに、
「どうぞ、すべてかけがえのないあなたの人生です」と手渡したのでした。
アイコ−ディアから恐る恐る本を受け取ったおばあさんは、その古ぼけた薄紫色の本を胸に抱き、
愛おしげに頬を寄せます。
気づくと、綺麗な涙がしわの刻まれた頬に幾筋も溢れ、ポタリポタリと床にこぼれ落ちて行きました。
「ごめんなさい・・・・ごめんなさい・・・・」
かすれて、絞り出すように繰り返される言葉は、誰の為のものなのか。
ミ−ヤはふと、それがおばあさん自らに向けでではないかと思えました。
泣き続けたおばあさんの姿が次第に薄くなり始めています。
やがて柱時計の鐘が4時を打つ頃、部屋の中にはアイコ−ディアとミ−ヤ・チャンの
二人だけが立っておりました。
おばあさんの座っていたソファ−の上には、薄紫の表紙をした本がポツンと残っているばかり。
「ご苦労様でした。 朝は少し御寝坊してもかまいませんからね」
不意に出来事の全てを断ち切る声が響くと、アイコ−ディアはいつもと変わらぬ笑顔で
微笑んでいました。
そして、「本はもとの場所に返して置いてください」と言ってミ−ヤに本を手渡します。
もちろんミ−ヤが咄嗟に身構えたのは無理もありません、でも・・・。
「あれ?」 ミ−ヤは驚きました。
だって、この本は子牛ほども重かったのに、それが今は手のひらに、軽〜くのってしまったのです。
「軽くなって良かったわね」
そう言ったアイコ−ディアの言葉は、ミ−ヤにではなく、
たぶんあのおばあさんにだったのでしょう。
そして悪戯っぽくウインクした瞳は、確かにミ−ヤに向けてのものでした。
アイコ−ディアはアフッと上品なあくびをすると、
「西図書室507番の622列目の8段目の右から31冊目ですよ。 おやすみなさい」と
言い残し、部屋に戻っていきました

さてさて、魔女の家には不思議な場所が沢山あります。
たとえばこの図書室もそんな中の1つです。
どんなところかと申しますと、その納められたほんの全ては、個人の『日記』であると言うこと。
何冊あるのかなんて、きっと誰も数えた事は無いに違いありません。
でもたぶん、人の数ほどあるって事は間違いが無いと思います。
それを知っているのがアイコ−ディアです。
その一冊一冊がどこにあり、何が書かれているかを知っているのが、
世界でただ一人、この北の魔女アイコ−ディアただ一人なのです。

こうしていつものようにやって来た朝、ちょっぴり寝不足の見習い魔女に
アイコ−ディアがこんな事を聞きました。
「日記を書いたことがあって?」
「あります、でもうんと以前で、三日坊主でやめちゃいました」
「どうして?」
「と、どうしてでしょう・・・?たぶん書くことがあまり無かったからだと思います」
「そうね、日記って本当のことしか書かないし、子供の頃は出来事だけしか見えないですものね」
アイコ−ディアはそれだけ言うと、またフンフンフン・・・と鼻歌を歌いながら、リンゴの種を
貰いにやって来る人のもとへ戻っていきました。
『日記に嘘は書かない、だからその人の本当の、嘘偽りのない人生と心の声が詰まっている』
アイコ−ディアはきっとミ−ヤにそう言いたかったのに違いありません。
自分で支えきれなくなった程の思いを書きつづった日記が重いのは当たり前です。
でも、あのおばあさんが、最後に自分の生きてきた全てを抱いてゆけたのは、ただおじいさんが手を握って
泣いてくれた事だけだったように、人はたったそれだけのことで、今まで疎ましかった自分の
人生を背負える力が出せるようです。
『魔女の家には不思議な図書室があります。
その図書室の本は、何故か重くなったり軽くなったりするのです。 そしてその本は、
魔女と名の付く人間にしか、持ち上げることも、読むこともかなわぬ本ばかりです』
(ミ−ヤ・チャンの日記、最初の1ペ−ジより)